天地創造と霊の下生

私達は何のために生きているのか

全ては無から始まった

遙か大昔、天も地もなく、すべては「無」から始まりました。

天地創造の神、ラウム様は「無」から天を創造し、宇宙が始まり、そして生命が住むことができる地、すなわちこの地球を創造されました。

そして、九六億の原佛子とよばれるたましいをお生みになりました。これが天地の始まりです。

私達の本質は永遠に存続するたましい

たましいとは、私達の肉体の中に宿る本性であり、ラウム様から生まれました。この世に生きとし生けるものすべては、ラウム様の子です。

たましいは肉体が死滅しても消えることはありません。太古の昔から未来永劫まで永遠の存在です。すべてのたましいは、人や動物の肉体を依り代として、何度も何度もこの世に生まれ変わっているのです。

六万年前に私達は地球へと下生した

たましいの母であるラウム様から生まれた私達は、最初、極楽の世界「理天界」で何不自由なく楽しく暮らしていました。しかし、ただ安穏と暮らすだけではたましいの成長にはなりません。子供が立派な大人へと成長するためには、厳しい環境で様々なことを経験し、学んでいく必要があるように、たましいにも修行の環境が必要となります。それが私達の住むこの地球です。

ラウム様は、6万年前に修行のために、原佛子であるたましいを地球へとお降ろしになりました。立派に成長して母の元へと帰るという約束と共に・・・。

地球という形の世界で有限な寿命を持つ肉体に宿り、天界に比べて極めて不自由な環境で暮らしていくことは大変でしたが、たましいのきょうだいたちは、互いに力を合わせて、助け合い、ラウム様の言いつけを守って善なる行いをし、正しく生きていました。

しかし、時が過ぎるにつれて地上での暮らしに慣れ、だんだんと邪な心が湧いてきて、ラウム様の言いつけを忘れ、欲心の赴く ままに生き、本来の目的であるたましいの修行を忘れてしまいました。

そして、肉体の中にある理天界へと繋がるたましいの「玄関」はついに閉じてしまい、ラウム様のもとに帰ることができなくなってしまったのです。

霊と魂魄

霊(たましい)は私達の本体であり、ラウム様の分身であり純善の存在です。

しかし私達の心には、善もあれば、悪も生じます。それは私達の霊はすでに心の奥底の意識できない部分へと隠れてしまい、心は魂魄(こんぱく)と呼ばれる悪を帯びたものによって支配されているからです。

魂(こん)は半善半悪の気質を有し、肝臓に宿ります。魄(はく)は全悪の気質を有し、肺に宿ります。

魂は輪廻の性と呼ばれ、肉体が滅びた後も輪廻転生を続け、善悪様々な因縁を継承します。魄は喜怒哀楽などの感情や欲望などを司り、生まれてから四十九日後に肉体に入り、死んで四十九日後に消滅します。

三界・・・象天界、気天界、地獄界

理天界へと帰れなくなってしまった九六の原佛子は、形のない気の世界、すなわち霊界へと留まり、再び形の世界へと生まれ変わることになりました。

形のある世界を象天界、形のない気の世界を気天界と言いますが、気の世界でも軽く澄んだ美しい世界、すなわち徳の高い世界は気天界となり、そこから重く沈んだ罪業の深い世界が地獄界として分かれました。

ラウム様という親元に帰ることができず、三界を巡り続ける苦しみ。この三界輪廻は、終わることのない苦しみとして果てなく続いています。

たましいを磨いて理天へと帰ること

正しい行いをして徳を積み、美しい原佛子の輝きを取り戻してラウム様の待つ理天界へと帰ること。それが私達のこの世で生きている究極の目的です。

多くの人に慕われる、お釈迦様や観音様、キリスト様は、苦しい修行によってたましいを磨き、理天の御神佛より救いの法を授かり、たましいの玄関が開かれ、理天へと帰られ神仏の位となった方々です。

しかし、三界の輪廻を繰り返すたびに罪業を重ねて汚れていくたましい。私達は最早自力ではラウム様の待つ理天界へと帰ることはできなくなってしまいました。

今、過去の罪業の因縁が形となって表れ、すべてが破滅へと向かう末劫の時となっています。親神ラウム様は、その大淘汰からすべてのたましいを救い返すために天命を降され、救いの道「天道」が世に伝えられています。

天道の秘法、「得道」を受ければ、お釈迦様、観音様、キリスト様などが得られたのと全く同じ救いの法を授かることができます。閉ざされたたましいの玄関の一点を開破し、三界輪廻を超越して、ラウム様が待つ永遠の極楽世界「理天界」へと帰ることができます。